講談・米沢ツアーは終わりました

 

なんだかんだありましたが、神田紫先生と講談教室メンバーとの米沢ツアーは無事終わりました🍀ほっ。

 

私にとっては、出先で着物の着付け、ヘアアレンジ、体力との相談など、チャレンジ項目の多い旅でした。もちろん立体講談で先生の講談に参加するわけですから、本番は緊張感たっぷりでございました😆

 

支倉常長は、400年前の米沢あたりで生まれた人です。東日本大震災レベルの大津波が東北沿岸を襲った後、伊達政宗の命を受け、復興のための交易を求めてスペインへと渡ります。

 

支倉常長は、現地で、日本人で初めてパエリアを食べ、ワインを飲み、肉を食べ、チョコレートなども口にしています。その時のおつきの武士たちの驚き、戸惑い、喜びを演じるのが私と講談教室のメンバーの役どころでした。

 

私のセリフは、初めてパエリアを目にして「パエジャ?・・・ご飯が黄色いぞ・・・(一口食べて)うめえなあ!!そうか、パエジャは、今のパエリアのことか!!」、パエジャをスプーンですくって、もぐもぐする演技もある、意外と長いセリフ笑

 

偶然、このツアーの中に米沢出身の方がいらして、昼食時に「うめえなあ!」を米沢風に言うのを教えてもらえたので、少しは楽しく言えたかな?

 

 

さて、気になる支倉常長のその後ですが、苦労して海を渡り彼の地へ着き、方々手を尽くし、交易のためキリスト教に改宗までしましたが、本来の目的は達せず。そして、再び苦労して日本に戻りますが、その時はもう政権が変わって日本は鎖国状態・・・彼の功績は全く顧みられることなく、失意のうちに帰国後一年で亡くなります。

 

しかし、礼を持って相手の国を訪れ、文化を尊重し、友好的に交易を申し入れた支倉常長とその一行が末長く愛されないわけはありませんでした。それができないために延々と憎しみ合っている国は山ほどあります。現地に残った侍の子孫たちはハポンさんとして愛されています。ハポンさんの中には、米沢にわざわざやってきて結婚式を挙げる人もいるそうです。

 

さて、今回どの着物を着ようか迷いましたが、亡き姉が縫った訪問着を着用しました。最初は別のにしようと思っていましたが、「えーと、これを着たときの帯締めと帯揚げは何だったっけ?」と昔の写真を探していたら、偶然出てきたのがこの訪問着を着たときの写真でした。

 

一回しか着ていないのに、そしてこの訪問着の存在を忘れていたのに、姉からの「これにしなさい」というメッセージ?でしょうね〜。

 

数日前に、母と電話した時、母から「あの子が和裁教室に通っている頃、着物の反物を買うのが結構な出費だった」と聞いたばかりでした。この訪問着は、あのころ母が苦労して手に入れた反物の一つでしょう。サイズ感からして、姉が自分のために縫ったもののようです。

帯は、踊りの試験の時に買ったものにしました。着物っていいな、親しい友達みたいに思い出に寄り添ってくれる。

 

12月はちょうど姉の生まれ月。支倉常長と同時に、意外にも姉の思い出にも浸ることのできた今回のツアーでした。

 

おまけ。着物を着たところ。小学生が起立したみたいです笑

 

 

 

 

 

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古波蔵ふう香
古波蔵ふう香
猫と和のお稽古にまっしぐらな私の毎日をつづります。