本牧亭の歴史は、庶民の歴史

 

今朝、ふうちゃんは柱の上の方が気になったようで、何度もジャンプしたり手を伸ばしたりしていました。クモでもいたのかな?

 

「本牧亭の灯は消えず 席亭・石井英子(ひでこ)一代記」を読んでいます。

 

タイトルにも書いたけど、本牧亭の歴史は庶民の歴史、さあこれから、NHKの大河ドラマじゃないかってぐらい歴史用語が出てくるよ!!

 

演芸場を経営する歴史は、英子さんの祖父・龍助(りゅうすけ)さんの時代から始まっています。

 

天保の改革(1841)による財政引き締め・倹約政策により、当時、江戸中の寄席は30軒から8軒に減らされてしまいましたが、祖父の寄席はその8軒に入っていたので何とか生き延びることができました。

 

その後、安政4年(1857)に上野広小路にて本牧亭をスタートさせます。

 

その頃の江戸ですが、嘉永6年(1853)のペリー来航後、幕府が黒船来襲に備えて台場建設、また、安政2年(1855)の大地震の後の復興需要のため、大工、左官、職人、人足といった人たちが町にあふれていました。この人たちの娯楽のため、寄席、講釈場は大いに賑わったということです。

 

一説には、安政年間(1854ー1860)の江戸市中には講釈場が220軒、寄席が172軒あったとか・・・1841年の天保の改革のときは寄席がたった8軒だったのに、20年ぐらいで随分増えたものですね!

 

やがて聞こえる維新の足音。ここで龍助じいちゃんの才覚が発揮されます。6代目三遊亭円生によると、

 

「上野の山へ彰義隊が立てこもって、いよいよ官軍といくさが始まろうってえことになった。そうすると、あの広小路のあたりは(略)所詮、家は助かりっこない、まごまごすれば命がなくなるってんで、みんな逃げ出した。家なんか、焼けてしまえば百文の値打ちもないから、売ろうたって買い手がつかない」

 

そこで買い取って地所を広げたのが龍助でした。まあ円生も「聞いた話ですが」と前置きしていますが、やはり機を見るに敏な人だったんでしょう。

 

本牧亭は明治九年に廃席となり、鈴本亭と名前を変えて演芸場を続けます。英子さんたち一家は演芸場の裏に住んでいました。

 

 

英子さんは明治43年の生まれですが、東京府立第一女学校(現・都立白鷗高校)に入った頃、関東大震災に遭います。

 

「私はおじいちゃん、おばあちゃんと一緒にお昼ご飯を食べていました。

 

そしたら突然、ぐらぐらと揺れて、開け放っていた窓から白い粉がパーッと入ってきて・・・。隣の家の漆喰壁が剥がれ落ちたんです。びっくりして立ち上がったけれども、とても歩けない。(中略)

 

私は気が小さいので表に飛び出しました。ところが瓦ひとつ落ちてない。後でわかったことですが、部屋の中も何ひとつ落ちてなかったんです。武蔵野台地に続く固い地盤のおかげでしょうね。」

 

読んで驚いたんですが、上野広小路は地震でびくともしなかったそうなんです。

 

何となく関東大震災は東京じゅう壊滅的な被害を受けた・・・ぐらいの認識でしたが、本牧亭や鈴本演芸場のあった上野広小路は地盤に恵まれていました。

 

しかし、

 

「二日の夜、松坂屋の前の油屋から火が出て、広小路はひとなめになったんです」と続きます。これにより鈴本亭は焼失しました。

 

しかし、その後、英子さんのお父さんの動きは速かった。地震騒ぎが一段落するや近所の土地を買い取り、鈴本亭再建に着手する一方、鈴本亭の跡地に映画館を建てました。(おじいさんと同じことをするわけですが、やっぱり頭にあったんでしょうねー)

 

この二つの建物は昭和20年3月10日の東京大空襲まで憩いの場として庶民に愛されました。

 

戦後、昭和23年(1948)に本牧亭が再建され、正式に講談定席として運営されます。そこから平成2年(1990)の閉場まで42年間、席亭を務めたのが英子さんというわけです。

 

ふうー、濃いですねー。江戸から東京の150年余りを駆け足で振り返った感じです。

 

 

 

 

 

 

 

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古波蔵ふう香
古波蔵ふう香
猫と和のお稽古にまっしぐらな私の毎日をつづります。